僕らの南極

セカペンたちの知っていること、考えてきたことの記録

あみめでぃあについて

『レポートとは違うな』by悠

今回、「狂う」ってことについて書いたが、思った以上に書けない。レポートはいつも(出来はともかく)ちゃっちゃと書いてしまうが、しっかりした文章になると書けない。結局、変なものができてしまった気が……。
 あと、いろんな劣等感で悩んでいた。身近、というか二号が自分より先に書いてしまうのとか、他の文章読んで「なんでこんな書けるの?」とか、いろいろと考えていた。
 そんなことを考えていたら、僕はいつも文章を書く時に「産みの苦しみ」みたいなことをしているなーなんて思い出していた。
 僕はいつだって井の中の蛙だ。井の中に中途半端にテレビ設置して、それを見ながらあーだこーだ言っているだけで、他のものをあまり知ろうとしてこなかったんだ。高校の文芸部時代だって、僕は僕以外の人の作品をあまり読んでいなかった。親から言われた「そういう文章を読んでいたら、堕落する」というのを信じていたからだ。
 もっと読まなきゃ、もっと知らなきゃ、もっと、もっと。僕は悔しがるよりも先に何かを行動をしなきゃいけない。そう思った。

『何で書くの』by二号

実を言うと、あみめでぃあ書くのはそこまで困らなかった。らぎさんのリトライを受けて、そのリトライの部分をどう書けばいいのかってことを悩んだくらい。
 むしろ悩んだのは書いた後、他の人の作品が出た後だった。他の人の文章を見て、なんだか畑が違う気がした。私は文章の節々や細かいところは読まれなくていい、だいたいきれいなイメージになってくれたらいいと思っていた。だけど、他の人はそんな書き方をしていなかった。イメージにすることなく、文章で伝えようとしている。
 強いと思った。小説じゃなくて、イメージじゃなくて、自分の文章をしっかりと伝えようとしている。気概を感じた。私にはまだ書けないものだと思った。

それとは別に、「何でみんな文章書くの」と気になった。文章を書くって、他の人から見たら「疲れるもの」で「大変なもの」で「上手くいかないもの」だ。決して、楽にできないものだし、人によってはできないものだ。
 自分の文章を下手だと思いながら、こんな拙いもの書いていいのかなと思いながら、どうして書けるのって不思議だった。私だって、自分が誰よりも書けるとは思っていない。でも、ある程度の自信みたいなものはある。謙虚に萎縮しながら発表するより、堂々と出したい。そうじゃないと、いつかどこかで、「下手な文章ですが」とか「拙いものですが」とかの言い訳が自分に返ってくる。そんなの嫌だ。

言い訳ができるような自分じゃなくて、言い訳しなくていい自分になりたい。書くことだけじゃなくて、他のことも。そう思えるようになった、かもしれない。

『ただ直すだけが校正じゃない』by水月

今回、私はゼロ番読者として、あみめでぃあの作品を読ませていただきました。私の添削については悠ちゃんが苦しんでいるように、かなり非道いです。文章を声に出してみておかしいと思ったらどんどん赤を入れていきます。悠ちゃんはそれで落ち込んだり、「いや、これは譲らん!」と言ったりします(時には「私に口で勝ったって、文章で伝わらなかったら意味ないんだからね!」と怒りますが……)。
 一日だけ、何作かだけは、らぎさんと一緒に校正をしました。私が「これはこうじゃないでしょうか」と言ったところ、何回からぎさんが「これは、○○さんらしい書き方だからね」と言ってくださいました。そのとき初めて、私のやり方ではダメだと思いました。
 悠ちゃんが言ったことと被りますが、私も多くの作品を読まなければならないと思いました。作品の中にはその人のカラーがあって、こだわりがあって、その人なりの伝え方があります。
 それを学ぶ事ができて、私はとても嬉しかったです。らぎさん、ちくわさん、ねぎとろさん、またあみめでぃあの執筆者のみなさん、本当にありがとうございます!