読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

僕らの南極

セカペンたちの知っていること、考えてきたことの記録

私にとって「書くこと」

書くことって何だろう。私にとって、友だちにとって、誰かにとって、書くことって何なのだろう。
 私は数日そういうことを考えていた。

これを考えているときに、私は今まで何を書いてきたかを思い出していた。身近なうなや悠が何を、どういう気持ちで書いてきたのかを思い出していた。
 小学五年生のとき。本嫌いなうなが森絵都の『カラフル』を読んで、小説書きが始まった。読者は私かお母さん。お母さんは添削だけ。読んでも読んでもどういう気持ちで書いていたのかは、私には分からなかった。
 中学一年のとき。一人の寂しさを紛らわすために小説を書き始めた。うながいなくなった頭の中はとても静かで、自分の声だけが反響していた。他の人たちにとってはこれが普通なのに、一つの声だけが頭の中に響く状態に自分には何か欠落しているものがあると感じていた。その"沈黙"を破るために、小説を書き始めた。
 小説を書くことを辞めようとしたのは、確か五回だ。クラスの人に笑われたとか、未完成の小説を取っておもしろがられたとか、勝手に鞄の中を漁られたとか、こんなことをしていても友だちはできないとか、親に「どうせ小説家になんかなれない。別にアンタがなれるとも信じていない」と言われたとか。そういう理由で、いつも本気で辞めようとした。だけど、気づけば小説を書くことに戻っていた。それしかないと思うように、意地になって書いていた。
 自分が書くものが普通の人と違うことに気づいたのはこの頃で、「夏休みの思い出」を書かされたときの文章をいろいろな人に褒められた。やっと人に認められるようなものが自分にあるのだと思えた。
 中学三年のとき。「俺は小説を書きたい。名前を残すために、俺が生きた証を残すために」そんなことを悠が言っていた。その頃の悠は、私以外の人と、初めて自分の偽らない姿で会話ができたことに喜んでいた。今、悠にそのときのことを聞くと、「そんなこともあったな」と恥ずかしそうに言う。
 高校のとき。悠が文芸部に入った。私も否応無しにものを書かされることになった。私の小説は、人に「すごい」と言ってもらえるものだった。嬉しかった。だけど、時々悔しかった。読んでほしいと思っていても読んでもらえないことがあることが悔しかった。
 文芸部では部誌を100部作る。私にわざわざ感想を言う人は3人。3%。そのことが悔しかった。「遊び」とか「趣味」とか、そういうものなら妥協できることかもしれないが、許せなかった。
 また、そういう風に見られることも許せなかった。周りの人が「小説を書く」ってきいて、「すごいね」「小説家になるの?」と言う。読んでもいないのに。読んでから言ってほしかった。どうなのか言ってほしかった。勝手に判断しないでほしかった。

書くことは、楽しいことばかりではなかった。
 私は小説を書くときに、いつも頭の中で映像を回す。その映像を日がな一日回し続ける。何度も同じ場面を見続ける。先がどうなるのか自分でも分からない。書いているうちに決まっていく。回して、回して、やっと作品になる。
 だけど、悩みや不安やストレスがかかると映像が回りすぎる。自分で制御できなくなる。頭の中に映像が周り続ける。何秒かズレでもう一つ映像が回り始める。頭の中が混乱して吐きそうになる。何度もトイレにかけこんで吐いてしまえと思っても、何も吐き出すことができない。もちろん、文章にもできない。
 産みの苦しみだった。
 私はそれを当時の彼氏に相談した。書けないことを相談した結果、「大丈夫。書けなくても好きでいるから!」と、自分勝手なヒロイズム丸出しの返信が返ってきた。そんな言葉は欲しくなかった。「書け」と言ってほしかった。私は書くことでしか自分の価値を決めきれなかったから、書かない私なんか求めないでほしかった。

大学に入って、ゲーム制作サークルに入った。そこで私は一時間でシナリオを書くというものをしていた。そこで私が書くシナリオはノベルゲーム(シナリオを一時間で書かせるのだから、ノベルかRPGだと思っていた。他の人はゲーム設定を書いていることが多かった)。一時間で書く文量は4000字。ストーリーは5分で、他はプロローグを書いていた。
 何度もその企画のときにシナリオを書いた。だけど、感想の多くは「一時間でよくこれだけ書けますね!」ということばかりだ。長い文章を読むのがめんどくさいらしい。
 大学二年の夏にサウンドノベルを作った。自分の作った作品で、一番好きな小説の拡大版。だけど、そのゲームをやったよという人はいなかった。私はサークルを辞めた。

それから、Twitterでらぎさんに「ブログしないんですか?」と言われ、悠が「やろうぜ! 俺らのことも明るみにして自由にやろうぜ!」みたいなことを言い出して、今に至る。

私は何で書くのだろう。必ずしも楽じゃないのに、他の人はしていないことなのに、何かになるという確固たる保証があるわけでもないのに、好きかどうかも分からないのに、何で書くのだろう。書きたいから書くという気持ちもある。人にすごいと言われたいという気持ちもある。自分の文章を人に見せたいという気持ちもある。でも、なによりも一番にあるのは「書かないことに戻れないから」かもしれない。何度諦めかけても戻る程に、離れられないのだ。それと、何で書くのかという理由に一番二番と番号をつけても、一つだけに絞らない。それは、その理由がなくなったら、それを理由に書かなくなるかもしれないと思ってしまうからだ。

私は、私に纏わるもの全てにみっともない言い訳をしたくない、そう思っている。文章を書くと、私の人生の一部なり全体なりが嫌でもにじみ出る。鋭い人にはたぶん感じ取られる。でも、それでいい。それが「私の人生に良いことも悪い事もいっぱいあったけど、その全ては無駄じゃない」といえる証拠になる。私の文章が誰かに響くってことは、その誰かは私みたいに泣いて悩んで苦しんで立ち直ろうとしたことがある人だ。私は一人じゃないし、その人も一人じゃない。いつか、そう感じさせるものを、「読ませる」なんかよりも「届ける」ものを書きたい。

これが、私の有用性です。