僕らの南極

セカペンたちの知っていること、考えてきたことの記録

文芸フリマ福岡にいってきました

 題名のとおり、文フリ福岡に行ってきました。私自身、初めての文フリ参加ということで、とても楽しませていただきました。
 私は本質的にちくらぎさんの『あみめでぃあ』の第三号に文章をのせていただいて、さらに売り子までさせていただきました! 本当にありがとうございます。
 せっかくの機会でしたので、いろいろと見て回って思ったこと、感じたことなどをつらつら書いていこうと思います。

○本の大きさについて
 今回、様々なブースを見て行きましたが、本の大きさ・厚さ共に様々な大きさでした。
 以前コミケに行ったこともあり、同人誌も売っているところを見たことがあるのですが、確かに「薄い本」と言われるだけあり、大きくて薄い本でした。私はなぜそれらの本が薄いのかは分かりませんが……。
 さて、文章の載っている本の大きさについてなのですが、私はせいぜい文庫本サイズ(A6)か、ニ段組みにしてあみめでぃあサイズ(A5)くらいだと思っていました。しかし、中にはA4で出している方がいて、驚きました。
 話してみると、大学の文芸部の方で、「印刷所に頼むとお金が……」という話でした。私も高校時代に文芸部に所属していたので、文芸部として印刷所に頼むことの利点と欠点を知っていました。
 良いものを作るにはお金がかかるのは当然です。しかし、そんな作る側の都合は「買ってもらうかどうか(手に取ってもらえるかどうか)」とは別の問題です。お金がないなら、プリンターで印刷して製本するならするで、できることはあります。A4の紙を使ってA5サイズの本を作ることも可能ですし、A4の紙一枚にA5のページ4枚分が印刷できるのです。その手間があるかないかで、手に取ってもらえるかどうか変わるのではないでしょうか。

○表紙買い
 私は本屋さんで「衝動的に」本を買うとき、「あらすじを読んで気になったら買う」か、「表紙がきれい」かのどちらかです。特に後者については、少なくとも「手に取る」まではしてしまうのです。
 今回のブース巡りでも同じようなことをしていました。きれいな表紙を見ては手に取って、あらすじを読んで「私には合わないかも?」と思ったり、買ってから「あ、これ知り合いの方のだったんだ」となったりしました。
 また、同じように「表紙避け」というものをしていました。私は(あまり良いことではないのですが)「表紙がアニメチックなもの」を避けてしまうのです。商業用のものであれば読むことはできるのですが、高校時代の偏見といいますか、一般のラノベ系文章のハズレ感を恐れて意識から外してしまうのです。
 上記のことと被るのですが、表紙がデザイン的な意味でなくシンプルなものも、意識から外してしまうのです。これはなぜかと言いますと、すごく嫌な言い方になってしまうのですが、手に取る魅力を感じないからです。文章書きの方に「いやいや、表紙で買ってほしいわけじゃなくて、文章で買ってほしいですから!」「自分は文章で勝負しているんで!」「嫌なら買うな!」と思われても仕方ないです。
 しかし、やはり、文章の内容はともかくとして、その「本」という物体に魅力を感じるかどうかというのは、その物を買ってもらえるかどうかという点で非常に重要なのも事実です。「文章だけ」の勝負ができるのは、表紙がなくてあらすじと紹介だけが書いてあるような、書店に置いている「目録」のようなものに載せてもらう他ない。
 他にもPOPなどの煽り文句や紹介文でなんとかするという手もありますが、「表紙」についても力を入れてみるといいのではないかと思います。
 「表紙買いをさせても損をさせない!」という気合いのある本を、私は買いたいと思います。

○ビラについて
 歩いているときに、いくつかの方にビラをいただきました。
 載っているものは文章のあらすじ、どのような本を出しているか、今売っているのはこういうものです、などなど。
 文芸フリマの中でこのようなビラを、それもブースにいる人がブースから配るということにどのような効果があるのでしょうか。
 文芸フリマを何周もうろうろするということは誰もがする行為でしょう。自分のサークルの売り子当番でない時間をつぶすためにうろうろして、売り子に戻ったときの暇つぶしにそのビラを読んで「あ、いいかも」と思うことも当然あるでしょう。
 その効果について納得したとしても、どうしても「自身のサークルの前でそれを渡す意味はあるのか」ということを考えてしまうのです。私にとってはビラは「後で読むもの」です。その「後」は必ずしも文フリが行われている時間内ではないのです。確かに文フリの時間内にあればラッキーなのですが、その不確定さとビラにかかるコストを考えた場合、どうしても「それはいらないのではないでしょうか」と思ってしまうのです。
 こうした辛い意見になってしまうのは、二号さんが見て回っているときに、二号さんが見ているブースの隣のブースの方が身体をずいと伸ばしてビラを渡そうとしてきたのを目撃したからかもしれませんが……。

 いろいろと書きましたが、私としては今回の文フリはとても楽しいものでした。悔いがあるとすれば、一回目は表紙がシンプルだからということで素通りし、買おうかどうかと迷っていると第三号が売り切れたからといって第一号第二号を買わなかった『九大短歌』さんを買えばよかったということです。らぎさんやぬかさんが惚れ込むくらいの本でしたので、自分の偏見が失敗することもありますが、今回のは結構ショックでした……。
 まだ全部は読んでいませんが、買ったものを大切に読ませていただきます(特に小柳さんの本!!)。参加した方々、また『あみめでぃあ』を買ってくださった方、本当にありがとうございます。
 来年もぜひ参加したいと思います!

近況

「やばい、やばい」と言っていたら、いつの間にか「やばい」と言っていた状況を通り越して別の「やばい」の状態にたどり着く。生き急いでいる人はもっとこの「やばい」を過ごしているんだろうなぁとぼんやり考える日々です。

さて、体調はともかく勉強に関してはまだもうちょっとだけ続くんじゃよという状態に。来年以降はどういう生活になるか分からない状態です。
一個の「やばい」の一つだったイベントが終わったところで、「あれやりたい」「これやりたい」の中身に特に手を付けられていないこの状況を何と言えばいいのだろうか。

最近、概念語りの文芸誌であるあみめでぃあのことを考えると、「ある概念とは〜」と辞書的なものの考えになってしまうことに気づく。まいでぃくしょなりーくんと喧嘩したくなる。
僕らは人間で、人間がみた「何か」を言葉にして、その言葉をおさめたものが辞書であるのに、どうして僕らは「何か」を見たときにその言葉を考えるのだろうか。僕よりもえらいのか、辞書よ。なーんてぐるぐる考えているわけです。

他の子の近況としては、うなと水月があみめでぃあ三号に文章をのせ、ぽんが一人取り残されて焦り、二号は実家から持って帰った古いゲーム機をクリーニングして分解して組み立てて遊んでいるという状況です。
学校のこともありますが、またゆるゆるブログの方を更新していきたいと思います。
よろしくお願いします。悠@セカペンでした。

近況

第一声が「やばい」になりそうです。
簡単に言うと、「院試」「卒論」「原稿」「体調不良」がででどんとのしかかって、うぼぁとなっています。
「私が死んでも代わりが……」ではないですが、ある程度の無茶はできる環境にあり、それをフルにつかって今までの人生をのりきってきたのですが、今回はなかなかにきついです。

そんなことをつらつら述べて何が言いたいかというと、ブログの更新になかなか踏み切れないかもしれません。院試終われば(早ければ9月前半、遅ければ……)少しは楽になるので、早めに終われるようにがんばります。

セカペン@悠

さよならだけが、人生ならば

 友だちの始まりはまだ分かりやすい。でも、友だちの終わりはって考えると、ちょっと分かりにくい。絶交とか喧嘩とかがあれば、友だちは終わりって思えるのかもしれない。でも、それがなかったらって考えると、終われない気がする。

 そもそも、友だちの始まりも曖昧なものだ。「俺たち、もう友だちだろ?」なんて台詞があるけれども、それはすごく一方的なものだ。こういう台詞がない限り、「友だちって思っているとは自分だけじゃないか」なんて気持ちさえする。

 私は人と違った友だち観念を持っているのかもしれないと思う。実際の友だちとインターネット上の友だちの差が、人よりもないのだ。
 「インターネット上の友だちのことでも、よくそんなに心配できるね」と言われたことがある。顔の見えない相手をよく信頼できるねってことに近いのかもしれない。
 「でも、実際に会っている友だちを信頼できるわけでもないよね?」って言いたい。その人の書く文章を読んで声だけを聞いて判断できるほど、私の感覚について自信があるわけでもない。それ以前に、相手も自分と同じ、人間であるってことを考えてしまう。

 突然いなくなる・連絡がとれなくなるという点をとっても、実際の人間とインターネットでつながっている人間との違いはそんなにない。
 大学での友だち、しかも休み時間に頻繁に話す友だちが年明けに学校に来なくなるということがあった。一日、二日、三日……と続いていき、今でも連絡がとれない。電話をかけたり、LINEを送ったりしている悠を見るが、返事がきたという話はきかない。
「どこかでなんとか元気にしているだろう」
 悠の学友はそう言う。でも、元気にしていなかったら、いなくなっていたら。そんなことを考えてしまう。
「そんなに気になるなら、家に行けばいいじゃん」
 家を知らない、何処に住んでいるか分からない。どうしろってんだい。

 結局、「元気にしているかなあ」と思うしかないのである。
 悠と時々その友人や、別の友人(いろいろな都合で学校を辞めてしまった子)の話をする。もう連絡のとれない友だちの話をする。
「あの子らは、自分でそういう道を選択したんだ。だから、僕らがどうこう言える問題じゃない。社会的に見れば『学校に行くべきだ』とか『無理しなくてもいいから、辞めるなよ』とか言うべきだろうし、本人たちもさんざん言われてるだろう。けど、そうやって引き止めた後に、彼らの問題を僕らがどうこうできるわけじゃない。その選択が彼らを幸せにするってわけじゃないんだ。僕らにできることは、話をきく・そばにいるってことくらいまでなんだ」
 悠はそう言っていた。「僕としては、過去の友だちってしてしまうよりも、今も友だちでいてほしいって思うけどね。もっと話したいって」とも言っていた。

 インターネットでは、こういう別れが頻繁にある。連絡手段のツールを相手が使わなければ、オフラインでいう「学校」のような場所がなければ、つながることはできない。いなくなったら寂しいし、悲しい。それが私の感情というだけであって、その人の理由を無視してでもすがりついてつながりを持ちたいというわけではないが、私の「寂しい」「悲しい」という感情はオンラインでもオフラインでも確かである。
 元は他人なのはどんなところでも当たり前で、なんらかの形でつながりを持った時点で「友だち」と思ってもいいんじゃないか。そう思っている。

 こういうの、私だけなのかなぁ。