僕らの南極

セカペンたちの知っていること、考えてきたことの記録

さよならだけが、人生ならば

 友だちの始まりはまだ分かりやすい。でも、友だちの終わりはって考えると、ちょっと分かりにくい。絶交とか喧嘩とかがあれば、友だちは終わりって思えるのかもしれない。でも、それがなかったらって考えると、終われない気がする。

 そもそも、友だちの始まりも曖昧なものだ。「俺たち、もう友だちだろ?」なんて台詞があるけれども、それはすごく一方的なものだ。こういう台詞がない限り、「友だちって思っているとは自分だけじゃないか」なんて気持ちさえする。

 私は人と違った友だち観念を持っているのかもしれないと思う。実際の友だちとインターネット上の友だちの差が、人よりもないのだ。
 「インターネット上の友だちのことでも、よくそんなに心配できるね」と言われたことがある。顔の見えない相手をよく信頼できるねってことに近いのかもしれない。
 「でも、実際に会っている友だちを信頼できるわけでもないよね?」って言いたい。その人の書く文章を読んで声だけを聞いて判断できるほど、私の感覚について自信があるわけでもない。それ以前に、相手も自分と同じ、人間であるってことを考えてしまう。

 突然いなくなる・連絡がとれなくなるという点をとっても、実際の人間とインターネットでつながっている人間との違いはそんなにない。
 大学での友だち、しかも休み時間に頻繁に話す友だちが年明けに学校に来なくなるということがあった。一日、二日、三日……と続いていき、今でも連絡がとれない。電話をかけたり、LINEを送ったりしている悠を見るが、返事がきたという話はきかない。
「どこかでなんとか元気にしているだろう」
 悠の学友はそう言う。でも、元気にしていなかったら、いなくなっていたら。そんなことを考えてしまう。
「そんなに気になるなら、家に行けばいいじゃん」
 家を知らない、何処に住んでいるか分からない。どうしろってんだい。

 結局、「元気にしているかなあ」と思うしかないのである。
 悠と時々その友人や、別の友人(いろいろな都合で学校を辞めてしまった子)の話をする。もう連絡のとれない友だちの話をする。
「あの子らは、自分でそういう道を選択したんだ。だから、僕らがどうこう言える問題じゃない。社会的に見れば『学校に行くべきだ』とか『無理しなくてもいいから、辞めるなよ』とか言うべきだろうし、本人たちもさんざん言われてるだろう。けど、そうやって引き止めた後に、彼らの問題を僕らがどうこうできるわけじゃない。その選択が彼らを幸せにするってわけじゃないんだ。僕らにできることは、話をきく・そばにいるってことくらいまでなんだ」
 悠はそう言っていた。「僕としては、過去の友だちってしてしまうよりも、今も友だちでいてほしいって思うけどね。もっと話したいって」とも言っていた。

 インターネットでは、こういう別れが頻繁にある。連絡手段のツールを相手が使わなければ、オフラインでいう「学校」のような場所がなければ、つながることはできない。いなくなったら寂しいし、悲しい。それが私の感情というだけであって、その人の理由を無視してでもすがりついてつながりを持ちたいというわけではないが、私の「寂しい」「悲しい」という感情はオンラインでもオフラインでも確かである。
 元は他人なのはどんなところでも当たり前で、なんらかの形でつながりを持った時点で「友だち」と思ってもいいんじゃないか。そう思っている。

 こういうの、私だけなのかなぁ。